箱根宿と箱根関所
HAKONE STREET(箱根町立郷土資料館所蔵)
箱根宿の様子
箱根町園地駐車場の交差点から箱根峠方面へ少し上がったところ撮影された写真で、「箱根宿」の全景がうかがえる貴重な写真です。(各種資料から明治19年[1886年]から37年頃の写真といわれています)
現在、各種飲食店や物産展、ホテルが立ち並ぶこの通りが当時から賑わっていた様子がうかがえます。
山々の稜線は今も見て取れ、写真左の中央よりやや上に映る丘の上の建物は箱根離宮で、現在は県立恩賜箱根公園として散策ができます。
写真手前に石畳が敷かれているとおり、現在もゆるやかに傾斜があり、往時をしのぶことが出来ます。
現在、各種飲食店や物産展、ホテルが立ち並ぶこの通りが当時から賑わっていた様子がうかがえます。
山々の稜線は今も見て取れ、写真左の中央よりやや上に映る丘の上の建物は箱根離宮で、現在は県立恩賜箱根公園として散策ができます。
写真手前に石畳が敷かれているとおり、現在もゆるやかに傾斜があり、往時をしのぶことが出来ます。
現在の様子。撮影は当時より低い位置ですが、山の稜線や通りの様子などが比べることが出来ます。
箱根宿とは
飲食店や物産店が立ち並ぶ箱根飲食物産店組合のあるエリアは、元和時代(げんな:1615~1624年)に山野を切り開いて作られた「箱根宿(はこねじゅく)」と呼ばれる宿場町が起源です。
参勤交代のためには急峻で知られる箱根越えの区間に宿場を作る必要があると、当時の江戸幕府から一大事業として整備が命じられ、小田原や三島から移住者約600人ほどの移住者を募りました。(現在も残る小田原町・三島町の旧町名はそれぞれの移住者が居を構えたエリアの名残です)
同じころ箱根関所も設置され(箱根の別の場所から移動したという文献もあります)、宿や茶屋の設置、また大名などが宿泊する本陣や脇本陣も立てられ、東海道の要衝として大いに賑わうこととなりました。
参勤交代のためには急峻で知られる箱根越えの区間に宿場を作る必要があると、当時の江戸幕府から一大事業として整備が命じられ、小田原や三島から移住者約600人ほどの移住者を募りました。(現在も残る小田原町・三島町の旧町名はそれぞれの移住者が居を構えたエリアの名残です)
同じころ箱根関所も設置され(箱根の別の場所から移動したという文献もあります)、宿や茶屋の設置、また大名などが宿泊する本陣や脇本陣も立てられ、東海道の要衝として大いに賑わうこととなりました。
元箱根(正眼寺所蔵)
元箱根側を望む
こちらも同じく箱根宿を映した写真で、元箱根方面を見たアングルです。
左の「はふや」とある看板は現在の箱根ホテルのあたりに位置する旅館です。
中央付近に見える電柱などから明治末頃の写真であるといわれています。
左の「はふや」とある看板は現在の箱根ホテルのあたりに位置する旅館です。
中央付近に見える電柱などから明治末頃の写真であるといわれています。
往時の姿のまま、
現代に蘇った箱根関所。
隅々まで見学できます。
箱根関所の役割
箱根宿と同時期に整備された箱根関所は、往来する人を改める検問の様な役割を持っていました。
旅人は笠や頭巾を取り確認がなされますが、特に「入鉄砲と出女」といわれたように、人質として江戸に住まわせていた大名の奥方が逃げ帰らないように、また大量の武器が無断で江戸に持ち込まれないようにするために厳しく監視がなされていました。
旅人は笠や頭巾を取り確認がなされますが、特に「入鉄砲と出女」といわれたように、人質として江戸に住まわせていた大名の奥方が逃げ帰らないように、また大量の武器が無断で江戸に持ち込まれないようにするために厳しく監視がなされていました。
当時の様子を旅できる「箱根関所」
威厳のある黒門は当時権威の象徴として恐れられていた風もあるかもしれませんが、現在は往時の風情を楽しく見学することができます。
施設は発見された当時の図面を基に忠実に再現され、改めの流れや役人の暮らし、また通行手形や武器類の展示など見どころもたくさん。
特に昼夜を問わず周辺の警備に利用された「遠見番所」からの眺めは、写真映え間違いなしのビューポイントです。
施設は発見された当時の図面を基に忠実に再現され、改めの流れや役人の暮らし、また通行手形や武器類の展示など見どころもたくさん。
特に昼夜を問わず周辺の警備に利用された「遠見番所」からの眺めは、写真映え間違いなしのビューポイントです。